共享 その二

    書中自ずから 黄金の屋 有り
          書 店 の 変 身
       
共享書店(シェア書店)

  シェア書店1 最近中国に、気に入った本があれば家に持って帰って読み、読み終わったら返せばいい、貸し出し料金はいりません、という本屋さんが出来た。

  “共享書店(シェア書店)”という。中国では大きな話題になっている。


冬の時代

  8月24日の朝日新聞は、『街の本屋さん、冬の時代』『「書店ゼロの自治体」が増えている』と、街の本屋さんが苦境に立たされ、深刻な事態が起こっていることを伝えている。

  本屋さんが苦境に陥っている原因の第一は人口減少のようだが、このご時世、書籍もネット販売、ネット購入が定着し、さらに盛んになっているその影響も大きいようだ。

  かつては本屋さん行くことを趣味のようにしていた私でも、最近本を買うのはもっぱらアマゾンで、本屋さんなどにはあまり行かない。


中国の本屋さん

  ネットによる書籍の購入が盛んになったために、本屋さんが苦境に陥っているというのは日本だけでなく、中国も同様である。

  中国ではいま、ひとりでも多くのお客さんにお店へ足を運んでもらうため、手を変え品を変え、いろいろと新しい形の書店造りが行われている。

  その試みの第一は大型商業施設への出店である。

  日本と同じで、中国の都市にはどこでも都心、副都心に大きなショッピングモールがある。最近はその中に誘致されたのか、自ら出店したのか大きな書店が必ずと言っていいほどお店を出している。

  大型商業施設と大型書店との連携は、集客という点で、双方に大きなメリットを生んでいるようである。

  第二は特徴ある、個性的な書店造りである。

  曲江書城2 最近、街にできる本屋さんは、お店の外見も内装も見栄えがよく、照明や書架のレイアウトも工夫され、実に居心地がいい。ここに住み着いてしまおうかと思うほどいい。先だって西安に行った帰りに上海に寄った。その折「鐘書閣」という本屋さんに行ったが、店内のおしゃれで、きれいなのに驚いた。

  曲江書城 加えて、最近の本屋さんは豊かで質の高い時間が過ごせるように造られている。カフェが作られ、文具や雑貨の売り場があり、またお店の中には椅子が置かれ、書架から気に入った本を取り出してゆっくり読書ができるようになっている。

  日本の本屋さんでも椅子を置いているところはある。私のよく行く明石のジュンク堂も椅子は置いてあるが、書架と書架の間の通路に、長椅子が置かれているだけ。中国の本屋さんは違う。西安の大雁塔の南、曲江に、「曲江書城」という大きな本屋さんが最近出来た。先だって西安に行った折、一日、雨が降ったので、「曲江書城」に行って半日ゆっくり本を読んだ。椅子は背もたれ、ひじ掛け付きで、布張りの上等、書架の間などでなく、人があまり行き来しないところにおいてある。ゆったりとした気分で本が読めた。


合肥三孝口書店

  こうした新しいスタイル、新しいコンセプトの本屋さんが現れる中で、いま最も注目されているのが、ことしの7月16日、安徽省の省都・合肥にオープンした“共享書店(シェア書店)”「合肥三孝口書店」である。

  シェア書店2 この本屋さんは24時間書店として有名なお店だが、今回さらに新機軸の営業をはじめた。

  書店を経営しているのは、国有書店でいまも中国書店界では大きな力を持っている新華書店の傘下企業、“安徽新華発行グループ”である。

  この本屋さんは、販売価格150元以下の本なら、自分が読みたいと思った本を無料で自分の家に持ち帰って読むことが出来る。持ち帰りは1回2冊までで、期間は10日以内。

  参考のためにそのやり方を紹介すれば、まず、スマホに“智慧書房”というアプリをダウンロードし、名前や携帯電話番号などを登録。シェア自転車で紹介したオンライン決済システムの“微信支付(ウィチャットペイ)”に保証金99元をチャージする。登録が終われば、借りたい本のバーコードをスキャンして、スキャンしたスマホと本を店員さんに見せればOKで、本を持ち帰れる。

  貸し出し期限内に返却できなければ、1日1元が保証金から引き落とされる。その代わり、汚したり損傷したりせず、期限内に返却すれば1冊につき1元のボーナスが振り込まれる。さらに3カ月に12冊借り出し、きちんと返却すればお店は“奨学金”と言っているが、保証金の8%がボーナスとして保証金に振り込まれる。
  (以上、貸出、返却、奨励金等については2017・7・17 新華社:「安徽“共享書店” 共享読書生態圏を打ち立てる」の記事から)


共享(シェア)書店の目的

  曹傑1 読みたい本があれば家に持って帰って読み、指定の期日内に返却すればいい。お金はいらない。「これで本屋さんは商売になるの」「これでは図書館ではないか」という疑問を持たれる人は多いだろうと思う。

  なぜ“共享(シェア)書店”を開いたのか。安徽新華発行グループの曹傑会長は、7月16日の「三孝口共享書店開店発表会」で行ったあいさつで、概ね次のようにおっしゃっている。

   ① お客様の読書についてのコストを減少させる。
   ② より多くのお客様に、より容易に、より速く読みたい本を提供する。
   ③ いままでの本屋は、本を買ってお金を払えば、それでお店とお客様とのつながりは切れたが、共享書店はお客様とのつながりを継続する。また書店、出版社、お客様の間での情報の共有を図る。
   ④ お客様同士の交流を進める。
   ⑤ 書店の書籍の利用度を高める。


共享(シェア)書店がもたらすもの

  三孝口店の行列 具体的に、お客様にとってどのようないいことがあるのかということについて、曹傑会長はまた次のように言っておられる。

   ① “奨学金”や、期日内優良返却報奨金など経済的利益の提供。
   ② お客様に本を読むだけでなく、本について評論や感想を書き、他の読者と交流、討論する“場”を提供する。読書を自己満足から、新たな価値創造と価値の分かち合いに進化させたい。

  宋の真宗皇帝、趙恒が詠んだ≪励学篇≫の一節、「書中 自ずから 黄金の屋 有り」を実現する試みだとも言われる。


図書館との違い

  共享(シェア)書店と図書館はどこが違うのだ、と多くの人が疑問を感じられるのではないか、と思う。

  中国でもそういういう声は多いようだ。IT関係の“分析師という、中国ではよく知られている潘九堂という人は、中国版ツィッター“微博”に「自分は深圳図書館で、“借出証”をつくった。保証金100元で、1回10冊まで借りられる。また、街には地域の図書館がたくさんある。いつでも好きな時に好きなだけ借りられる」と、図書館の方が便利だと言って、言外に共享(シェア)書店の必要性に疑問を呈している。

  因みに日本の図書館では借出証に保証金などいらないが、中国ではどこの図書館でも必要で、もう10年以上前だが、陝西省図書館で私が「貸出証」を作ったときは30元だった。

  潘九堂さんは言う。「公共自転車、公共バス、公共トイレ、公共図書館。みんなシェア、すなわち共有、共用物ではないか。公共の二字がどうグレードアップすれば“共享(シェア)”になるのだ」

  シェア書店3 要するに中身は一緒ではないか、というのである。

  ネットでも図書館の方が蔵書が多い、貸し出し数や期間も長い、と図書館の肩を持つ人がたくさんいる。

  一方、図書館には新しい本がリアルタイムに入って来ないし、数も多くないとシェア書店の方をよしとする人もまた多い。

  ただ、インターネットによるサービスには大きな違いがあるようだ。

  図書館のネットサービスは “貸出・返却処理”、“貸出・予約状況検索”、“蔵書検索”、“行事告知” など図書館と利用者、市民を個別に結ぶだけものだが、シェア書店・三孝口書店のネットサービスは、書店と利用者を結ぶでけの単線でなく、利用者相互、あるいは出版社や執筆者などとのネットワークが作られている。また、書店の保有書籍の情報だけでなく、いまどういう本が注目をされているのか、どういう作家が人気があるのかなどなど、読書に関する様々な情報も共有することが出来る。ネットサービスでは三孝口書店の優位性があるようだ。“智慧書房”は単なる貸出用アプリでなく、かなり優れもののアプリなのだ。

  三孝口書店は図書館と違って、「以書識人(書を以て人を識る)」 「以書会友(書を以て友と会す)」 をめざしていると言われる。


儲けは・・・?

  図書館のようなことをやって儲かるのか、と言えば、それだけではもうからないだろう。しかし、借り出した本がいいので買いたい、と借り出しを購入に変える人も出て来るだろう。なによりも無料貸し出しをはじめたおかげで書店は門前市を為す盛況のようだから、本以外の儲けも上がっているかも知れない。

  ただ儲けるということから言えば、それも大したことはない。三孝口書店はもっと大きな儲けを考えているのだろう。

  開店発表会の、曹傑会長があいさつされている写真がそれを表している。

  シェア書店というプラットフォームの上に、顧客、出版社、執筆者、文化芸術の専門家などのネットワークを作り、書店だけでない、より大きなビジネスを考えているのではないか、と思う。

  新華社も「安徽・三孝口書店、共享読書生態圏を打ち立てる」と伝えているが、安徽新華発行グループは書店を中心としたビジネスエコシステムを進め、出版、書店のイノベーションを行おうとしているのだろう。

 三孝口共享(シェア)書店はその第一歩だろう。
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共 享 その一

   デジタル ネットワークが生み出した
       新しい自転車文化

共享単車(シェアサイクル)

  先だって中国・西安に行った折、中国の新しい街事情を知った。

  シェアサイクル写真4 朝、泊まっていたホテルの裏通りを散歩していて気がついたのだが、歩道の木陰にカラフルな自転車がたくさん置いてあった。

  見ていると、近くのマンションから出て来た人が、その内の一台に乗ってどこかへ行った。かと思うと、今度はどこかから同じような自転車に若い男の人が乗って来て表通りの近くで降り、自転車をそのままにして大きなビルの方へ向かって歩いて行った。

  私の泊まったホテルの周りだけでなく、西安の街のいたるところに、これらと同じカラフルな自転車がたくさん放置されている。この自転車は何だろうと思った。個人持ちのものではないようだが、日本の街によく置かれている観光用のレンタル自転車でもなさそうである。付近にはそういうお達しや、使用案内などを書いた高札なども立っていない。

  この前西安に行ったのは2013年だったが、その時はこのような自転車は見なかった。

  その日の夕食の折、友人に「あの自転車は何なの」と聞いたところ、「共享単車」だという。中国語の共享とは “分かつ” 、あるいは “共有する” という意味のことばである。神戸に帰ってから調べたら日本のメディアは “シェアサイクル” と称している。要するに“共有自転車”なのだ。利用料は必要とのことだからレンタル自転車のようだが、詳しく聴いてみるとやはり日本のレンタル自転車とは違う。

  日本のレンタル自転車は置き場所が決まっていて、利用した後は所定のところへ返さなければならない。“共享単車”は、乗るときは言うまでもなくどこでも置いてあるものを勝手に乗って行けばいいので、これは日本と同じだが、用が済めばそこに置いておけばいい、要するに乗り捨て御免なのである。そこが日本のレンタル自転車とは違う。

  これらの自転車を所有し、運営しているのはお役所でない。すなわち公営でなく、民間企業の経営である。西安でも数社が行っているという。運営している会社によって自転車の色が違うとのことで、それでいろいろな色の自転車があるのだ。


利用方法と料金

  利用しようと思ったらどうするか、まずスマホにアプリをダウンロードして利用登録をし、保証金を支払い、利用料をチャージする。これで利用手続きが完了。

  シェアサイクル解錠 自転車を使うときはスマホを自転車のハンドル、あるいは後輪の泥除けについているQRコードにかざしてそれを読み取れば、ピピッと鳴って開錠する。

  目的地に着けば自転車を降りて施錠をする。それだけでいい。自転車から利用完了の信号が出て、スマホのチャージから、アマゾンと並んで世界的に有名な中国のIT企業アリババのオンライン決済システム 「支付宝(Alipay)」 か、中国SNS大手テンセントの決済システム 「微信支付(WeChat)」 に利用料が引き落とされる。

  共享単車に参入している企業は現在25社という。随分多い。その中で利用者が一番多いのは「摩拝(Mobike)」だそうで、保証金は299元(4800円)、利用料は30分が0.5元(8円)、少しグレードの高いサイクリング車のようなものは30分が1元(16円)とのこと。次に顧客が多い「小黄車(0f0)」は保証金が199元(3200円)、利用料は1時間・1元だそうだ。(円元レートは8月25日現在)

シェアサイクル写真2 保証金は契約解除の折返済されるとのこと。

  安い。地下鉄やバスよりうんと安い。

  待ち時間がない。表通りだろうと路地裏だろうと好きなところへ行けて、すきなところで自転車を置けばそれで返却完了、これはすごく重宝である。人気が出るはずで、ホテルに帰って百度百科で調べたところ、「2016年共享単車市場研究報告」によれば2016年末には1,888万人が登録しているとのことである。またその「報告」の予想によれば、登録者は2017年末には5,000万人になるだろうという。


自転車の衰退と復権

  改革開放が始まったころの中国は“自転車大国”であった。

  中国の大都市の大きな通りには、広い自転車専用レーンがある。1990年代中頃、西安の朝夕ラッシュ時は、どこの大通りの自転車専用レーンも自転車で埋まった。私は自転車の渋滞をて見て驚いたことがある。

  しかし2000年代に入って中国でもモータリゼーションが言われるようになり、自転車の影は段々薄くなった。一時、電動自転車が流行ったこともあったが、マイカーが増え、西安の幹線道路も裏通りもクルマの渋滞が常態化するようになった。

  ただ、自転車が廃れていく一方で、皮肉なことに世界的にも排気ガスの問題もあって都市での路面電車や自転車の効用が見直されはじめた。2007年、中国でも政府主導で自転車の活用プロジェクトが進められ、レンタル自転車が登場した。

  当初はレンタル自転車の利用者も増えたようだが、何分お役所仕事のこと、需要は大きいのだが自転車の整備が間に合わない、ということで、2010年ごろからは民間業者も参入して“官民合作”で取り組んだ。今度ネックになったのは駐輪場である。

  当時のレンタル自転車は、指定の場所に駐輪するする方式で、返却は駐輪場に持って行かねばならない。したがって駐輪場をたくさん整備しなければならなくなった。それが難しい。駐輪場の土地確保などで不正も行われたようで、思うようにはいかなかったようだ。


デジタル・ネットワークで新自転車文化

  「それなら好きなところで乗り捨てられるようにすればよい」、「料金支払いはネットで行うようにすればいい、集金も簡単」、「いま自転車がどこにあるかということはGPSで把握しよう」、というアイデアとプロジェクトが、初めは北京大学の学生の中から出て来て、大学構内で実施され、それが企業化され、市中に広まったという。

  シェアサイクル写真3 大胆な発想とデジタルネットワークの活用。さすが頭の柔らかい学生。それに民間企業が飛びついて、画期的な事業が瞬く間に広がった。お役人に任せていてはこうは行かない。

  ただ、「共享単車」も自由気ままな乗り捨てが歩行者の邪魔になったり、美観を損ねたり、故意の破壊が行われたり、とまだまだいろいろと解決しなければならない問題はあるようだが、利用者は先にも見たように急速に定着、拡大している。

  乗りたいときに乗り、降りたいところで降り、「ここに置いていたら盗られるんではないか」という心配もなく、「帰りにまたここまで来なければ・・・」という面倒もなく、いつでも気ままに使える自転車、しかも料金は安い。これはもう新しい自転車文化ではないかと思う。


もう一つの“共享”

  ところで、中国には最近もうひとつ新しい“共享”が生まれた。

  「共享書店」である。

  本屋に入って読みたい本があればお金は払わず、持って帰って読む。読み終わったら返す。そういう本屋さんができたのである。
  「それで本屋さんは儲かるの」、「それじゃ図書館とおなじじゃない」という声が聞こえて来そうな話である。

  いまこの“共享”が注目されている。紙数の都合でそのことは後日書く。

窖齢酒

   君見ずや 名酒の香り地下より来る
       大地が生み出したしあわせ

お土産

  7月初めに行われた日中友好協会姫路支部主催の「内蒙古・シラムレン、フフホト、山西省・大同、汾陽、平遥をめぐる旅」にいらっしゃった一人の方が、私にお土産として「百年瀘州老窖」を買って来てくださった。

  なによりのお土産で、嬉しくて、本当は、「わざわざ荷物になるのに買って来てくださり、申し訳ありません。折角ですので、遠慮なくいただきます。ありがとうございます」とでも申し上げていただくべきと思うが、そういうことを申し上げる前に手が出て、むしり取るようにしていただいた。

  瀘州老窖窖齢30-2 横から見ていたら、その時の私はがつがつした浅ましい男に見えたに違いない。

  山西省のお土産が「汾酒」でなく、「瀘州老窖」というのはなぜか、と思われる人がいるかも知れない。これにはわけがある。

  日中友好協会姫路支部は、昨年は「重慶・三峡下りの旅」を実施された。

  重慶では重慶市対外友好協会と交流会をされ、その席に「瀘州老窖」が出されたようで、それが後日私の耳に入った。私は「みなさんいい酒をお飲みなったなあ、うらやましいなあ」と、このブログ新有山随筆(2016・11・29)に書いた。ことしおみやげを買って来てくださった人は、私のそのブログを読まれ、覚えていてくださって、それで山西でわざわざ「瀘州老窖」を求め、買って来てくださったのだろう、と思う。


窖齢酒・百年瀘州老窖

  瀘州老窖は四川の酒で、濃香型。濃香型を時に“濾型”と称することもあるほど瀘州老窖は濃香型白酒を代表する名酒である。

  瀘州老窖もいろいろなグレードのものが出されているが、買って来てくださったお酒はもう少し詳しく言えば、「窖齢酒」「百年瀘州老窖」である。

  「百年瀘州老窖」とは、1900年代初めから80年ごろまでに設置された窖池で造られたお酒で、瀘州老窖をつくっている瀘州老窖グループが、2011年に売り出した高級品シリーズである。「窖齢酒」は「窖齢30年」、「窖齢60年」、「窖齢90年」と3種類ある。


窖齢酒

  中国白酒のグレードを決めるのに、熟成期間を指標とする方法がある。

  お酒を熟成させることを日本では「寝かせる」という。中国では「窖藏(ジャオツァン)」という。よく「××年ものの酒」というが、それである。「陳酒」と言ったり、「老酒」と称したり、あるいは「陳年老酒」、あるいはまた、「年份酒」と表したりする。

  一方、「窖齢酒」というのは、一定の熟成期間を経たお酒について言った呼称ではない。すなわち「窖齢30年」は「30年ものの酒」ではなく、お酒を造った窖池の「使用年数」による分類である。


窖 池

  窖池図 「窖」は中国語で「ジャオ」と読み、日本語では「こう」と読むが、「穴倉」のことである。「窖池」とは地面に掘られた穴で、中国白酒はその穴の中にお酒の材料を入れ、発酵させて造る。

  穴の壁面や底面には、お酒の味や香りをつくる菌や、腐敗菌を抑える微生物などがびっしり繁殖している。その「窖池」の中に蒸した高粱などを入れて発酵させるのである。

  中国の人に言わせれば、窖池は古代中国の四大発明である「羅針盤」、「印刷」、「火薬」、「紙」と並ぶもので、中国の五大発明と呼ぶべきもの、とのことである。

  中国白酒の世界では、「千年老窖万年糟 酒好全憑窖池老(千年の老窖、万年の糟 酒の良さは窖池の年代による)」と言われている。

  「長い年月使い続けている窖池で発酵させ、発酵した醪を取り出して蒸留して酒を採り、糟はまた窖池に返して発酵させる、これを何度も繰り返す。いい酒が出来るかどうかは年季の入ったいい窖池があるかどうかによる」という意味のことばである。

  2新窖 年季の入ったいい窖池は持つことは、白酒づくりの重要な前提条件なのである。

  「窖齢30年酒」は30年使って来た窖池で発酵させたお酒、「窖齢60年酒」は造られて60年使い続けられている窖池で醸し出されたお酒、「窖齢90年酒」は90年の歴史を持つ窖池で造ったお酒ということである。

  窖池は歴史が長いものほどいいお酒が醸し出される。造られて30年間使い続けられた窖池、もともとは黄土で造られたもので、当初、壁などは黄色いものだが、30年も使い続けると菌、微生物が繁殖してその壁は黒く変色する。60年使われている窖池は紅緑に、90年経ったものは五色になっているという。


百年窖

  長安老窖2 90年使い続けて、いまも現役という窖池は驚きだが、さすが中国100年を超えるものもたくさんあるという。

  四川省宜賓(五粮液)と濾州(瀘州老窖)、その南にある貴州省遵義(茅台酒)を結んだ三角を「中国白酒の金三角」という。この地域には窖池が34,000余あると言われ、その内、造られて100年を超えるものが1,600余りもあるという。それを聞いただけで白酒好きの私は酔いがまわって来る。私に言わせれば、これこそ世界遺産にしたいものである。


特異性

  要するに、お酒を醸した “場所”というか、“器”というか、ざっくばらんに言えば “坑(穴)” の良し悪しを問い、その実力を味わうというのが「窖齢酒」である。

  お酒の原料、すなわち穀物や果実、あるいは発酵の舞台となる水の良し悪しを問い、その結果を味わうというのは、どんなお酒でも行われることだが、お酒を育んだ “場所” の力量を問い、味わうというのは中国白酒だけだろう。

  「窖齢酒」は中国白酒の特異性を象徴する格付け方法である。

  なお、窖池について若干付言すれば、土でない窖池もある。

  中国白酒四大名酒の一つと言われる清香型の「汾酒」の窖池は、陶製の甕である。“地缸”と呼ばれている。

  四川の「郎酒」の窖池は石の窖だそうで、四壁は石の板を張り、底面の黄泥を張っているという。

  さて、「窖齢酒」「百年瀘州老窖」の味は如何と言えば、多言を要さず、「まさに甘露」の一言。
  買って来てくださった人に多謝。感謝の意を表して「再一杯」。

燗か 冷やか

   温めるべきか
     温めざるべきか

とりあえず・・

  西安城の含光門を入ってすぐ右に折れ、小さなレストランが軒を連ねている報恩寺街を東に行くと、中ほどに「陝西一絶」という胡蘆頭泡モオ(フウ ルオ トオ パオ モオ)のおいしい店がある。以前、贔屓にしてよく通った。

  5月の一夜、かつての同僚、飲み友だち5人とその店に行った。

  陝西一絶2 案内された席に座ったところで、よく訪日をしている一人が、「日本式で、とりあえずビール、と行きますか」という。

  「回り道はやめよう、いつもの白酒でいい」という声があり、「とりあえず白酒だよ。そして宴たけなわも白酒だよ」という声もあって、涼菜を幾皿か注文し、白酒のボトルを持って来させて乾杯した。

  はじめに「ビールにしましょうか」と言った日本通の彼が、「日本では焼酎にお湯を入れて飲みますね。清酒もお湯を入れますか」と私に聞く。「清酒には入れない。清酒はそのまま温めて飲みます。日本では“お燗”と言います」というと、「なぜですか」というので、「それでなくてもアルコール度数の低い清酒、お湯など入れるとお酒でなくなります。また味も悪くなります」と答えたところ、「お酒が薄くなるというのは焼酎も同じではありませんか。中国の白酒はお湯など入れません」と別の人が言い出して、酒の“お湯割り”と“燗”についての話に花が咲いた。


白酒と燗

  九州の一部では焼酎をお燗するようだが、一般的に日本では蒸留酒はお燗しない。温めて飲むときにはお酒の中にお湯を入れる。焼酎のお湯割り、ホットウイスキー、ホットブランデーがそれである。

  一方清酒はお湯を入れず、お酒を温める。これを「燗」という。ものの本によれば熱いと冷たいの間だから“間”といい、火のお世話になるので「燗」としたのだという。

  要するに蒸留酒はお湯をいれて温め、醸造酒はお酒をあたためるのが一般的である。

  中国のお酒でも醸造酒である「黄酒」、日本人にもおなじみの「紹興酒」などは酒を温めて飲む。要するにお燗をする。因みに中国ではお燗のことを“燙酒”(タンジョウ)という。“温酒”(ウエンジョウ)という言い方もある。

  ただ日本と違って蒸留酒である「白酒」は“お湯割り”はしない。“水割り”もしない。

  “白酒” の飲み方は至ってシンプルですっきりしている。

  「いいですね白酒は、シンプルで」と言ったら、白酒博士を自認するひとりが、「白酒も温めて飲みますよ」と言う。

  「昔から白酒は温めて飲みました。そのための酒器もあります」

  「西安では温めて飲まないよ」と老西安の友人が反論した。“老西安”とは年老いた西安市民でなく、西安生まれ西安育ちの人のことを言う。

  「西安だけでなく、いまはどこでも白酒を温めることはしないけれど、それは近年の習慣ですよ」と“白酒博士”を自認する友人が反論に反論する。

  もう一人東北出身の友人が“白酒博士”の言の内、近年は冷やを飲むのが習慣だというところに異を唱えて、 「いや、東北では今でも温めて飲みますよ。私の父は寒くなると白酒を温めて飲みます。お酒の匂いが部屋中に広がってね・・」 と、東北では白酒を温めて飲むのは古い習慣でなく、今でも行われているという。

  誰かが「お店にお願いして白酒を温めてもらいましょうか」と言った。

  「このお店に白酒を温める酒器などないでしょう」と別一人が言い、老西安が「いらないよ。熱い白酒など飲みたくないよ」と言ったので、話は終わったが、現代の中国では、白酒はお湯割りも、お燗もしない、そのまま飲む、という私の思い込みは、東北出身の友人の話を聞いて、間違っていたことがその夜わかった。


 ただ、昔は白酒も温めて飲んだというのは、いろいろな本で読んだことはある。

冷や酒は毒

  私の本棚に、西安で買った中国四大奇書のひとつ≪紅楼夢≫がある。それを引っ張り出して調べた。

  ≪紅楼夢≫は美味佳肴の描写が豊富で、垂涎三尺の美食はたくさん描かれているが、美酒の話は少ない。すくないけれど、白酒の話は何度が出て来る。その中に、白酒を燗して飲むところがあったような気がしてすぐ調べてみた。

  第38回に林黛玉が「焼酒を燗して飲む場面」がある。私の訳で紹介しては、皆さんに信じてもらえないかもしれないので、伊藤漱平先生訳の平凡社版の本からその個所を紹介する。

  『黛玉は釣り竿を手から放すと、亭まで行って例の梅花模様のついた燻銀の手酌用の徳利を取り上げ、海棠色の凍石で芭蕉の葉形に拵えた浅い盃を選り取った。侍女が黛玉がお酒を飲むらしいと気づいてあわてて駆け寄り、酌をしようとする。黛玉は「私のことはほっといてあなたたちは飲んでいなさい。私は手酌でいただきます。それでなくてはおいしくないわ」、そういうと盃に半分ほど注いだが、見ると黄酒なので「蟹を少しいただいただけなのに胸が苦しいの。うんと熱くした焼酒がひと口飲みたいのだけれど」と所望する。宝玉は「焼酒ならありますとも」と言うが早いか、あの合歓を浸した酒に燗をつけて持って来る』

  ここに書かれてあるとおり、清朝時代には白酒を燗して飲んでいたのである。

  なぜ燗をして飲むのか。もちろんおいしいからなのだろうが、他にも理由があるようだ。

  第8回に賈宝玉が冷酒を飲もうとして周りの人から説教されるところがある。

  『・・・ここでまた宝玉が「お燗など必要ないよ。私はもっぱら冷や酒を飲む方だから」と言う。薛叔母はあわてて「いけません。冷や酒を飲むと手習いをなさるとき手が震えるようになりますよ」と言った。宝釵も「宝玉兄さん」と笑いながら、「あなたは毎日雑学を詰め込んでいらっしゃるでしょう。お酒は熱い性質だということくらいまさか知らないわけではないでしょう。温めて飲めば発散は速いけれど、冷たいまま飲めば体の中に固まってしまい、五臓でこれを温めることになります。これでは体に障りがないわけないでしょう。これからは冷たいお酒はお飲みにならないことですね」と言った。宝玉はこれを聞いてそれも道理だと思い、すぐ冷たい酒を置いて、暖かいのを持って来るように言った』

  ただし、この場面で宝玉が燗をして飲むことにした酒は白酒かどうか判然としない。
昔から中国では白酒は北方で愛飲され、黄酒は南方で愛飲されている。しかし、清朝時代の北京の宮廷、貴族、要するに上流社会では、江南のお金持ち流の生活がよしとされて、彼らが愛飲する黄酒が、日常的にも、社交の場でも飲まれていた。

  高級官僚で美食家の袁枚は、著書≪随園食単≫に「紹興酒は名士であり、焼酒は光棍(ごろつき)である」と書いている。焼酒とは白酒のことである。また、「焼酒は民間の光棍であり、県庁の酷吏である」とも書いているが、それは北京上流社会の飲酒の傾向を表すものである。すなわち北京の上流社会では白酒は遠ざけられ、黄酒が重用されていたのである。

  第8回ではこの後のところでも、宝玉はお燗した酒を2,3杯飲んだというところが出て来る。が、そのお酒が白酒なのか黄酒なのかは書かれていない。書かれていないということは、書くまでもなく黄酒だったからだと見るべきだろう。

  薛叔母や宝釵の忠告は白酒についてのことではなく、お酒全般について注意、忠告なのだろうと思う。冷酒を飲んではいかんというその根拠は、明代初めの養生家、賈銘が書いた≪飲食須知≫にある「およそ飲酒は温かいものが宜し」「冷たいものを飲めば手戦となる(手が震える)」という記述かも知れない。

  清代の文人で学者の朱彛尊は、「生酒、冷酒を飲み続けていると脚の皮膚が破れ、気がおかしくなり、手足や身体に痛み、痺れが出て来る」と言っているという。

  これらからわかるように、黄酒であれ、白酒であれ凡そお酒というものは温かくして飲むべし、というのが昔の中国の、養生訓のようだ。

  日本でも以前は「冷や酒は体に悪い」とよく言われていた。

  白酒と燗2 では中国の現代の知識はどう言っているかと言えば、やはり白酒を温めて飲むことを薦めている。

  アルコールの沸点は60~70℃と水よりかなり低い、アルデヒドはさらに低く21℃くらいで、酒を温めれば体に害のあるメチルアルコールやアルデヒドが揮発するので、身体にいい。とりわけアルコール度数の高い白酒は、その効果大と言っている。

  さらに言う。温かい酒は腸からの吸収が速いので、酔いが速く来る。要するに比較的少量で、酔えるのである。身体への負担が少ない。付け加えて言えば、安く済むので懐への負担も軽くて経済的にいい。

  温めることによって酒の甘さ、旨味なども一層際立って来るだろう。

  白酒においても、燗を排除する理由は見当たらない。

  ではどのくらい熱くすればいいのか。あまり熱くてもいけない。白酒の場合、20℃~30℃がいい(燕趙都市報・李薇)という見解や、30~40℃(百度百科)がいいという論もある。要するに日本酒の燗で言えば“ぬる燗”からせいぜい“人肌燗”、熱くても“上燗”までというところのようだ。


試 飲

  こうなって来るとじっとしておれない。帰国後すぐ、食器棚の奥に仕舞っている徳利を取り出し、長安老窖を入れて燗をして飲んでみた。

  思った通り、白酒のような香りの強い酒は、温めると香りがさらに強まる。
香りが強まって部屋中とは言わないが、あたりに強烈な匂いが漂った。冷やの白酒を口元に運んだ時に、鼻を刺激するフルーティな香りでなく、アルコールの匂いである。

  最近の若い人はとくに強い酒の香りを嫌がっているようで、日本でも燗酒は好まれない。中国でも白酒が敬遠されるのはアルコール度数の高さとともに、その香りの強さが原因と見られている。最近白酒を温めなくなった理由の一番は、やはり香りが強くなりすぎるという問題ではないだろうか。

  ただ、あたためた白酒は口当たりが軽くて、さらりとして意外に飲みやすい。口の中で転がすゆとりもなく、すぐ喉に入って行く。いつも飲んでいる白酒とは違う。甘み、旨味も希薄というか軽くなったような気もする。

  なにより喉越しの刺激が少ない。


酒を探る 醍醐味は冷や

  私見を言わせてもらえば、白酒はやはり冷やを飲むに若くはない。

  まずその甘い香りを楽しみ、舌の上でゆっくり甘み、うま味を味わい、喉越しの刺激を堪能し、鼻を抜ける香り、口の中に残った甘みの余韻を楽しむのがいい。

  味覚、臭覚、刺激感覚を総動員して、その酒本来の香りや、味や、刺激を探る、要するに「酒のすべてを探り出す」、それが酒を飲む醍醐味なのである。

  冷やでなければそれはできない。

西安行 その三

  もう一人の主役
   土の匂いのする将軍

楊虎城

  西安三日目、用事が済んで一息ついた。行ってみたいところが二つある。その一つは楊虎城ゆかりの場所である。

  楊虎城写真2 ことしは、かつての15年戦争で、日本軍が全面的な中国侵略に転じた盧溝橋事件の80周年である。その盧溝橋事件の前年、1936年12月、これも日中戦争の大きなターニングポイントとなった「西安事件」が起こった。

  「西安事件」と言えば誰もが張学良を思い出すだろう。もう一人の主役、楊虎城はあまり語られることもなく、そのゆかりの地を訪れる人もあまりない。だが私は「西安事件」と言えば先ず第一に楊虎城を思う。


楊虎城陵園

  西安に昵懇にしている女性のガイドがいる。もう20年近い付き合いで、肝胆相照らす親友である。彼女は西安、それも安定門(西門)近くの城内で生まれ育ち、いまも西安で暮らしている。いわゆる“老西安”である。“老”と言っても年寄りではない。若くて美しい女性である。

  楊虎城陵園1 彼女は西安事件の遺跡がたくさんある城内で育ったということもあって、小さいときから西安事件、とりわけ楊虎城について関心を持ち、随分勉強していて学者並みに詳しい。格好のガイドである。電話をしたら、二つ返事で、その上クルマで来てくれた。

  「まず楊虎城将軍陵園に行きましょう」ということで、西安南郊、長安区韋曲の街から少し南に行ったところにある楊虎城のお墓に向かった。

  西安観光のツアーでもここに来るツアーはほとんどない。この日も私たち以外には人影はなかった。

  西安の南郊、昔々にあった曲江池の南は小高い黄土台地である。中国では上が平らになった黄土台地を「ユエン(土偏に原)」という。ただこの土偏に原という字は日本では使わない。中国でもあまり使われないようで、大概は同じ発音の「原」を使う。楊虎城のお墓は、背後に「鳳棲原」という黄土台地を背負う小高いところにある。

  正気堂 「楊虎城将軍陵園」という碑がはめ込まれた大きな門を入ると、広い石段があり、それを登りきったところに正気堂という大きな祭堂がある。中に「楊虎城将軍烈士陵園」と彫った石碑が立っている。書いたのは解放軍の葉剣英元帥である。石碑の背面には1949年12月、中国共産党中央が楊虎城の家族に送った弔電全文が彫られている。字は中国仏教界の重鎮、趙朴初師の筆になるもの。

  正気堂を抜けて行くと墓園があって上下二つに分かれている。下の墓園には秘書であった宋綺雲と彼の奥さん徐林侠夫人、その子どもの宋振中などのお墓がある。

  さらに上に登ると真ん中に楊虎城の墳墓、右側に三番目の夫人、謝葆真、次男楊拯中のお墓がある。左には二番目の夫人、張蕙蘭と長男、楊拯民のお墓がある。虎城のお墓の前には大きな碑が立っている。思わず姿勢を改め、頭を下げた。


刀 客

  楊虎城は西安の北100kmほどのところにある蒲城県で、1893年、貧しい農民の子として生まれた。小さい頃2年ほど私塾に通って勉強したようだが貧乏で続けられずやめている。12歳で飲食店の下働きなどしたという。14歳の時、父親が罪を得て絞殺された。お金がなくてその葬式も出せなかったが近隣の人の援助で葬式だけは出した。その後、彼は葬儀互助組織「孝義会」をつくる。さらにその後この組織を拡大し、“打富済貧”を目指した「中秋会」を組織している。

  楊虎城の墳墓 1911年、武昌蜂起があり、辛亥革命が始まると多くの人を引き連れて「陝西民軍」に参加した。しかし袁世凱が大総統になり、革命軍の削減が行われてやむなく村に帰る。村に帰ると、村人を苦しめる土地の悪徳金貸しを黙って見ておれずこれを殺し、どこで金の工面したのかウィンチェスター銃をはじめは1丁、後に6,7丁買い、100人ほどを引き連れて蒲城一帯で有名な刀客となった。

  “刀客”とは関中下層人民特有の義侠組織である。破産農民、失業手工業者、労働者、都市遊民が集まったもので、通常、臨潼関山鎮で造られた“関山刀”を携帯していたことから、“刀客”と呼ばれていたという。清朝政府はこれを“刀匪”と呼んだ。


国民軍将軍、陝西主席

  1915年には陝西護国軍に参加、袁世凱軍と戦った。

  1917年、中華民国臨時約法をめぐって段祺瑞と孫文が対立した護法戦争に、孫文側に加わり、以後も直隷派、北洋軍、安徽派との戦いで数々の戦果を挙げて国民党の大きな称賛を得、1922年に孫文自ら楊虎城の国民党入党の手続きを行ったという。

  その後も煩を厭うわけではないが、ここに書ききれないほどの戦果を挙げて、1927年に馮玉祥に招聘されて国民革命軍第二集団軍第10軍軍長に任命されるなど大いに世に知られるようになった。

  1928年、蒋介石と馮玉祥との争いでは蒋介石に付いて戦う。

  この戦いで蒋介石の側に立って馮玉祥軍を打ち破った唐生智は、何を思ったか突如打ち破った馮玉祥と手を握って、武漢駐馬店にある国民党軍総司令部を攻めて蒋を驚かす。これに対して楊虎城は大雪の中、唐生智軍を奇襲、反撃してこれを大破した。

  この駐馬店の戦役は中国近代史の中でも高く評価される戦いで、楊虎城の名を一気に高めた。彼をあまり評価していなかった蒋介石は驚いた。そして1930年、蒋は楊虎城を第17路軍総指揮に任命、同年10月には国務会議の承認を経て陝西省政府主席に任命した。のちに陸軍二級上将にも任命されている。

  陝西省主席として楊虎城はとくに文化教育と水利事業等の発展に力を尽くした。

  当時軍閥同士の混戦が長く続いていて教育費は軍事費に流用され、陝西の教育は困窮し、危機に瀕していた。彼は主席になるや、軍事費を削減し、商業税、煙草税などを教育にまわし、また自費で故郷の孫鎮や蒲城県に多くの学校をつくった。

  さらに水利技術学校や、中国では初めての水工試験所、あるいは黄河水力発電所を建設している。

  さらにまた、軍閥混戦、政局不穏のため陝西省の医薬衛生事業は全くの空白状態だったが、省人民医院を設立し、省内の有名な医師など専門家を集めたほか、巨費を投じてX線設備などを整え、各種検査室などもつくって省人民医院を西北第一の医療機関にした。薬廠と助産学校も創立している。


抗日と死

  このころ蒋介石は馮玉祥や閻錫山など各地の軍閥との戦いに勝利し、また東北軍閥張作霖が日本軍に爆殺されたあと、あとを継いだ張学良が易幟を表明して国民党に加わったので中国をほぼ統一し、残るは共産軍壊滅だけという状況にあり、「攘外安内」(まず国内を安定させたのち外国と戦う)を掲げ、この方針を大々的に進めていた。

  楊虎城は蒋介石の国内統一の戦いに従っていたが、1931年の9・18(柳条湖)事件以後、考えが変わった。蒋介石の「攘外安内」政策に反対し、積極的に「抗日」を主張するようになったのである。1933年には「抗日」のための出兵を申し出たが取り上げられなかった。日本の満州侵略を見て、内戦をしている場合かという思いが強まり、蒋介石の承認を待たず、共産軍との戦闘をやめた。同年6月、川北の工農軍第四方面軍と不可侵の黙契「漢中密約」を交わしている。

   剿共のため東北から西安に移って来ていたが、何度も共産軍に負け、その内共産軍とは戦おうとしなくなった張学良と、これまた「抗日」を主張して共産軍と戦わない17路軍総司令、楊虎城の督戦のために、1936年12月、蒋介石が西安にやって来た。

  この機会をとらえ、楊虎城と張学良は蒋介石に直談判して「共産党との合作」と「抗日」を迫るが認められず、それでは、ということで、力づくで蒋介石を拘禁して「抗日」「国共合作」への転換を迫るクーデターを起こし、世界を震撼させた。よく知られている「西安事件」である。

  事件後、張学良は蒋介石に南京で拘束されたが、楊虎城は“外国視察”という名目で国外に放り出された。

  しかし、翌1937年7月盧溝橋事件が起きると、楊虎城は帰国して抗日戦に参加したいという電報を蒋介石に送っている。しかし受け入れられなかったので同年12月、抗日戦に参加しなければというやむに已まれぬ思いで帰国したところ、家族や秘書なども一緒に逮捕され、以後12年間拘禁された。

  1949年9月6日、蒋介石は国共内戦に敗れて重慶を放棄し、台湾に逃れることになった。その前夜、国民党の特務によって楊虎城は幼い子供や秘書夫婦、その子どもなどと一緒に殺害された。
 
  中華人民共和国建国後の1950年、遺体は西安のこの地に移葬された。


岐山面

  楊虎城陵園を出て、北に向かった。友誼西路と労働南路、高新路の合流点にある“永明”に入って昼食をする。私のリクエストである。

 岐山面2  “永明”は岐山面のチェーン店で、西安のあちらこちらにお店がある。私は専ら南梢門にあるお店に通ったが、この日は彼女の行きつけということで友誼西路の店にした。

  岐山面は久しぶりである。店員が麵をテーブルの上に置くと同時に箸をつけて面を啜った。面の歯ごたえ、酸味と辛みのきいたスープ、細切れの具、待ってました、と言いたいような味であった。

  食べた後しばらく一服して、再びクルマで友誼西路を東に走り、長安路に出て南梢門を北に行き、城内に入ってさらに北上、北大街と蓮湖路の交差点の一筋北にある細い道、青年路に入って西にしばらく行った。青年路の中ほどの北側に楊虎城の別荘であった「止園」がある。そこで車を降りた。


止 園

  “戈(か)を止(とど)むるを武という”と春秋左氏伝にある。“武”とは戈(ほこ)を止めることだという春秋左氏伝の説にもとづいてこの別荘は「止園」と名付けられたという。

   止園2 現在は楊虎城記念館になっていて、彼の生涯の写真や資料が展示されている。見るのは初めてではないが、ゆっくり時間をかけてみた。


民衆の戦士

  張学良は東北軍閥の御曹司で、小さい頃から行き届いた教育を受け、またなに不自由なく育った。成人になってからも東三省講武学堂で幹部軍人になる教育も受けている。父亡き後は大きな権力、権益、財産を引き継いだ。いわば生まれながらの軍閥であり金持ちである。

  楊虎城は彼とは全く違う。その日暮らしの貧農の生まれで、まともに教育も受けていなければ、後ろ盾になってくれるような人もない中で大きくなり、刀客にもなった。自分の手で民衆を組織し権力に歯向かって、一段一段階段を上がるように力をつけ、知識と教養を身につけ、人々の信頼と尊敬を勝ち取って来た人である。

  正義感と度胸、社会の下層の人々への熱い思いをばねにして一流の軍人、行政官になった。

  楊虎城別荘 抗日について言えば、西安事件以後は蒋介石にひたすら恭順の意を表し、唯々諾々と拘禁を甘受し、その後抗日について声をあげなかった張学良と違い、楊虎城は外国に追放されていても盧溝橋事件が起これば即座に、度々、帰国し抗日戦の前線に行きたいという訴えの電報を蒋介石に打ち、聞き入れないとわかれば強引に帰国して逮捕拘禁されている。

  同じ抗日であっても張学良の抗日は父を殺され、根拠地から追い出されたことへの“私怨”でないかと思うが、楊虎城のそれは掛け値なしの愛国、救国、中国人民を守りたいという思いがら出ている。

  張学良は拘禁50年後釈放され、100歳まで生きて天寿を全うした。楊虎城は国民党敗走の前夜に、家族などとともに殺された。この違いはなにか。蒋介石が楊虎城の国を愛し、民衆を心から愛するその思いと、行動を恐れたためではなかったかと思う。

  私は楊虎城を民衆の中から生まれ、民衆とともに戦った人、民衆の戦士だと尊敬している。

  張学良は楊虎城生誕100年に際し、楊虎城について「彼はすばらしい人物だ。愛国人士とみるべきだろう」と評価しつつも、「(西安事件では)脇役に過ぎなかった」と言っている。

  これは楊虎城の歴史への貢献を低く評価し、功績を自分が独り占めしようという思いからの発言ではないと思う。張学良は西安事件のことを問われると、計画実行したのは自分である、責任はすべて自分ひとりにあると言い、国民党の拘禁から解放された後も、西安事件のことは、それ以外は全く語らなかった。楊虎城が脇役であったという発言は、責任は自分だけにありとする覚悟の表明の一環、彼なりの美学から出たロジックであって、楊虎城を貶めるために言ったものではないと思うが、それはやはり違う、と私は思う。

  楊虎城は決して脇役ではない。

  私は楊虎城の思想や戦いの経歴から見て、西安事件を計画し実行した本当の主役は、楊虎城だと確信している。

  別荘の見学を終え、止園の門をくぐりながら、私はふと、明朝を倒しながらも自壊した李自成と、西北で解放区を作り、中国革命に貢献しながらも仲間に理解されず冷遇され、死を急いだ劉子丹を思い出した。いずれも黄土の匂いがする陝西生まれのアウトサイダーである。楊虎城もまた黄土の匂いがする偉大なアウトサイダーではなかったかと思う。
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yuzan0305

Author:yuzan0305
神戸生まれ、神戸育ち。おとこ。
第二の故郷は中国・西安。

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