燗か 冷やか

   温めるべきか
     温めざるべきか

とりあえず・・

  西安城の含光門を入ってすぐ右に折れ、小さなレストランが軒を連ねている報恩寺街を東に行くと、中ほどに「陝西一絶」という胡蘆頭泡モオ(フウ ルオ トオ パオ モオ)のおいしい店がある。以前、贔屓にしてよく通った。

  5月の一夜、かつての同僚、飲み友だち5人とその店に行った。

  陝西一絶2 案内された席に座ったところで、よく訪日をしている一人が、「日本式で、とりあえずビール、と行きますか」という。

  「回り道はやめよう、いつもの白酒でいい」という声があり、「とりあえず白酒だよ。そして宴たけなわも白酒だよ」という声があって、涼菜を幾皿か注文し、白酒のボトルを持って来させて乾杯した。

  はじめに「ビールにしましょうか」と言った日本通の彼が、「日本では焼酎にお湯を入れて飲みますね。清酒もお湯を入れますか」と私に聞く。「清酒には入れない。清酒はそのまま温めて飲みます。日本では“お燗”と言います」というと、「なぜですか」というので、「それでなくてもアルコール度数の低い清酒、お湯など入れるとお酒でなくなります。また味も悪くなります」と答えたところ、「お酒が薄くなるというのは焼酎も同じではありませんか。中国の白酒はお湯など入れません」と別の人が言い出して、酒の“お湯割り”と“燗”についての話に花が咲いた。


白酒と燗

  九州の一部では焼酎をお燗するようだが、一般的に日本では蒸留酒はお燗しない。温めて飲むときにはお酒の中にお湯を入れる。焼酎のお湯割り、ホットウイスキー、ホットブランデーがそれである。

  一方清酒はお湯を入れず、お酒を温める。これを「燗」という。ものの本によれば熱いと冷たいの間だから“間”といい、火のお世話になるので「燗」としたのだという。

  要するに蒸留酒はお湯をいれて温め、醸造酒はお酒をあたためるのが一般的である。

  中国のお酒でも醸造酒である「黄酒」、日本人にもおなじみの「紹興酒」などは酒を温めて飲む。要するにお燗をする。因みに中国ではお燗のことを“燙酒”(タンジョウ)という。“温酒”(ウエンジョウ)という言い方もある。

  ただ日本と違って蒸留酒である「白酒」は“お湯割り”はしない。“水割り”もしない。

  “白酒” の飲み方は至ってシンプルですっきりしている。

  「いいですね白酒は、シンプルで」と言ったら、白酒博士を自認するひとりが、「白酒も温めて飲みますよ」と言う。

  「昔から白酒は温めて飲みました。そのための酒器もあります」

  「西安では温めて飲まないよ」と老西安の友人が反論した。“老西安”とは年老いた西安市民でなく、西安生まれ西安育ちの人のことを言う。

  「西安だけでなく、いまはどこでも白酒を温めることはしないけれど、それは近年の習慣ですよ」と“白酒博士”を自認する友人が反論に反論する。

  もう一人東北出身の友人が“白酒博士”の言の内、近年は冷やを飲むのが習慣だというところに異を唱えて、 「いや、東北では今でも温めて飲みますよ。私の父は寒くなると白酒を温めて飲みます。お酒の匂いが部屋中に広がってね・・」 と、東北では白酒を温めて飲むのは古い習慣でなく、今でも行われているという。

  誰かが「お店にお願いして白酒を温めてもらいましょうか」と言った。

  「このお店に白酒を温める酒器などないでしょう」と別の一人が言い、老西安が「いらないよ。熱い白酒など飲みたくないよ」と言ったので、話は終わったが、白酒はお湯割りも、お燗もしない。そのまま飲むものという私の思い込みは、間違っていたことがその夜わかった。


冷や酒は毒

  私の本棚に、西安で買った中国の四大奇書のひとつ≪紅楼夢≫がある。それを引っ張り出して調べた。

  ≪紅楼夢≫は美味佳肴の描写が豊富で、垂涎三尺の美食はたくさん描かれているが、美酒の話は少ない。すくないけれど、白酒の話は何度が出て来る。その中に、白酒を燗して飲むところがあったような気がしてすぐ調べてみた。

  第38回に林黛玉が「焼酒を燗して飲む場面」がある。私の訳で紹介しては、皆さんに信じてもらえないかもしれないので、伊藤漱平先生訳の平凡社版の本からその個所を紹介する。

  『黛玉は釣り竿を手から放すと、亭まで行って例の梅花模様のついた燻銀の手酌用の徳利を取り上げ、海棠色の凍石で芭蕉の葉形に拵えた浅い盃を選り取った。侍女が黛玉がお酒を飲むらしいと気づいてあわてて駆け寄り、酌をしようとする。黛玉は「私のことはほっといてあなたたちは飲んでいなさい。私は手酌でいただきます。それでなくてはおいしくないわ」、そういうと盃に半分ほど注いだが、見ると黄酒なので「蟹を少しいただいただけなのに胸が苦しいの。うんと熱くした焼酒がひと口飲みたいのだけれど」と所望する。宝玉は「焼酒ならありますとも」と言うが早いか、あの合歓を浸した酒に燗をつけて持って来る』

  ここに書かれてあるとおり、清朝時代には白酒を燗して飲んでいたのである。

  なぜ燗をして飲むのか。もちろんおいしいからなのだろうが、他にも理由があるようだ。

  第8回に賈宝玉が冷酒を飲もうとして周りの人から説教されるところがある。

  『・・・ここでまた宝玉が「お燗など必要ないよ。私はもっぱら冷や酒を飲む方だから」と言う。薛叔母はあわてて「いけません。冷や酒を飲むと手習いをなさるとき手が震えるようになりますよ」と言った。宝釵も「宝玉兄さん」と笑いながら、「あなたは毎日雑学を詰め込んでいらっしゃるでしょう。お酒は熱い性質だということくらいまさか知らないわけではないでしょう。温めて飲めば発散は速いけれど、冷たいまま飲めば体の中に固まってしまい、五臓でこれを温めることになります。これでは体に障りがないわけないでしょう。これからは冷たいお酒はお飲みにならないことですね」と言った。宝玉はこれを聞いてそれも道理だと思い、すぐ冷たい酒を置いて、暖かいのを持って来るように言った』

  ただし、この場面で宝玉が燗をして飲むことにした酒は白酒かどうか判然としない。
昔から中国では白酒は北方で愛飲され、黄酒は南方で愛飲されている。しかし、清朝時代の北京の宮廷、貴族、要するに上流社会では、江南のお金持ち流の生活がよしとされて、彼らが愛飲する黄酒が、日常的にも、社交の場でも飲まれていた。

  高級官僚で美食家の袁枚は、著書≪随園食単≫に「紹興酒は名士であり、焼酒は光棍(ごろつき)である」と書いている。焼酒とは白酒のことである。また、「焼酒は民間の光棍であり、県庁の酷吏である」とも書いているが、それは北京上流社会の飲酒の傾向を表すものである。すなわち北京の上流社会では白酒は遠ざけられ、黄酒が重用されていたのである。

  第8回ではこの後のところでも、宝玉はお燗した酒を2,3杯飲んだというところが出て来る。が、そのお酒が白酒なのか黄酒なのかは書かれていない。書かれていないということは、書くまでもなく黄酒だったからだと見るべきだろう。

  薛叔母や宝釵の忠告は白酒についてのことではなく、お酒全般について注意、忠告なのだろうと思う。冷酒を飲んではいかんというその根拠は、明代初めの養生家、賈銘が書いた≪飲食須知≫にある「およそ飲酒は温かいものが宜し」「冷たいものを飲めば手戦となる(手が震える)」という記述かも知れない。

  清代の文人で学者の朱彛尊は、「生酒、冷酒を飲み続けていると脚の皮膚が破れ、気がおかしくなり、手足や身体に痛み、痺れが出て来る」と言っているという。

  これらからわかるように、黄酒であれ、白酒であれ凡そお酒というものは温かくして飲むべし、というのが昔の中国の、養生訓のようだ。

  日本でも以前は「冷や酒は体に悪い」とよく言われていた。

  白酒と燗2 では中国の現代の知識はどう言っているかと言えば、やはり白酒を温めて飲むことを薦めている。

  アルコールの沸点は60~70℃と水よりかなり低い、アルデヒドはさらに低く21℃くらいで、酒を温めれば体に害のあるメチルアルコールやアルデヒドが揮発するので、身体にいい。とりわけアルコール度数の高い白酒は、その効果大と言っている。

  さらに言う。温かい酒は腸からの吸収が速いので、酔いが速く来る。要するに比較的少量で、酔えるのである。身体への負担が少ない。付け加えて言えば、安く済むので懐への負担も軽くて経済的にいい。

  温めることによって酒の甘さ、旨味なども一層際立って来るだろう。

  白酒においても、燗を排除する理由は見当たらない。

  ではどのくらい熱くすればいいのか。あまり熱くてもいけない。白酒の場合、20℃~30℃がいい(燕趙都市報・李薇)という見解や、30~40℃(百度百科)がいいという論もある。要するに日本酒の燗で言えば“ぬる燗”からせいぜい“人肌燗”、熱くても“上燗”までというところのようだ。


試 飲

  こうなって来るとじっとしておれない。帰国後すぐ、食器棚の奥に仕舞っている徳利を取り出し、長安老窖を入れて燗をして飲んでみた。

  思った通り、白酒のような香りの強い酒は、温めると香りがさらに強まる。
香りが強まって部屋中とは言わないが、あたりに強烈な匂いが漂った。冷やの白酒を口元に運んだ時に、鼻を刺激するフルーティな香りでなく、アルコールの匂いである。

  最近の若い人はとくに強い酒の香りを嫌がっているようで、日本でも燗酒は好まれない。中国でも白酒が敬遠されるのはアルコール度数の高さとともに、その香りの強さが原因と見られている。最近白酒を温めなくなった理由の一番は、やはり香りが強くなりすぎるという問題ではないだろうか。

  ただ、あたためた白酒は口当たりが軽くて、さらりとして意外に飲みやすい。口の中で転がすゆとりもなく、すぐ喉に入って行く。いつも飲んでいる白酒とは違う。甘み、旨味も希薄というか軽くなったような気もする。

  なにより喉越しの刺激が少ない。


酒を探る 醍醐味は冷や

  私見を言わせてもらえば、白酒はやはり冷やを飲むに若くはない。

  まずその甘い香りを楽しみ、舌の上でゆっくり甘み、うま味を味わい、喉越しの刺激を堪能し、鼻を抜ける香り、口の中に残った甘みの余韻を楽しむのがいい。

  味覚、臭覚、刺激感覚を総動員して、酒の香りや、味や、刺激を探る、要するに「酒のすべてを探り出す」、それが酒を飲む醍醐味なのである。

  冷やでなければそれはできない。

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西安行 その三

  もう一人の主役
   土の匂いのする将軍

楊虎城

  西安三日目、用事が済んで一息ついた。行ってみたいところが二つある。その一つは楊虎城ゆかりの場所である。

  楊虎城写真2 ことしは、かつての15年戦争で、日本軍が全面的な中国侵略に転じた盧溝橋事件の80周年である。その盧溝橋事件の前年、1936年12月、これも日中戦争の大きなターニングポイントとなった「西安事件」が起こった。

  「西安事件」と言えば誰もが張学良を思い出すだろう。もう一人の主役、楊虎城はあまり語られることもなく、そのゆかりの地を訪れる人もあまりない。だが私は「西安事件」と言えば先ず第一に楊虎城を思う。


楊虎城陵園

  西安に昵懇にしている女性のガイドがいる。もう20年近い付き合いで、肝胆相照らす親友である。彼女は西安、それも安定門(西門)近くの城内で生まれ育ち、いまも西安で暮らしている。いわゆる“老西安”である。“老”と言っても年寄りではない。若くて美しい女性である。

  楊虎城陵園1 彼女は西安事件の遺跡がたくさんある城内で育ったということもあって、小さいときから西安事件、とりわけ楊虎城について関心を持ち、随分勉強していて学者並みに詳しい。格好のガイドである。電話をしたら、二つ返事で、その上クルマで来てくれた。

  「まず楊虎城将軍陵園に行きましょう」ということで、西安南郊、長安区韋曲の街から少し南に行ったところにある楊虎城のお墓に向かった。

  西安観光のツアーでもここに来るツアーはほとんどない。この日も私たち以外には人影はなかった。

  西安の南郊、昔々にあった曲江池の南は小高い黄土台地である。中国では上が平らになった黄土台地を「ユエン(土偏に原)」という。ただこの土偏に原という字は日本では使わない。中国でもあまり使われないようで、大概は同じ発音の「原」を使う。楊虎城のお墓は、背後に「鳳棲原」という黄土台地を背負う小高いところにある。

  正気堂 「楊虎城将軍陵園」という碑がはめ込まれた大きな門を入ると、広い石段があり、それを登りきったところに正気堂という大きな祭堂がある。中に「楊虎城将軍烈士陵園」と彫った石碑が立っている。書いたのは解放軍の葉剣英元帥である。石碑の背面には1949年12月、中国共産党中央が楊虎城の家族に送った弔電全文が彫られている。字は中国仏教界の重鎮、趙朴初師の筆になるもの。

  正気堂を抜けて行くと墓園があって上下二つに分かれている。下の墓園には秘書であった宋綺雲と彼の奥さん徐林侠夫人、その子どもの宋振中などのお墓がある。

  さらに上に登ると真ん中に楊虎城の墳墓、右側に三番目の夫人、謝葆真、次男楊拯中のお墓がある。左には二番目の夫人、張蕙蘭と長男、楊拯民のお墓がある。虎城のお墓の前には大きな碑が立っている。思わず姿勢を改め、頭を下げた。


刀 客

  楊虎城は西安の北100kmほどのところにある蒲城県で、1893年、貧しい農民の子として生まれた。小さい頃2年ほど私塾に通って勉強したようだが貧乏で続けられずやめている。12歳で飲食店の下働きなどしたという。14歳の時、父親が罪を得て絞殺された。お金がなくてその葬式も出せなかったが近隣の人の援助で葬式だけは出した。その後、彼は葬儀互助組織「孝義会」をつくる。さらにその後この組織を拡大し、“打富済貧”を目指した「中秋会」を組織している。

  楊虎城の墳墓 1911年、武昌蜂起があり、辛亥革命が始まると多くの人を引き連れて「陝西民軍」に参加した。しかし袁世凱が大総統になり、革命軍の削減が行われてやむなく村に帰る。村に帰ると、村人を苦しめる土地の悪徳金貸しを黙って見ておれずこれを殺し、どこで金の工面したのかウィンチェスター銃をはじめは1丁、後に6,7丁買い、100人ほどを引き連れて蒲城一帯で有名な刀客となった。

  “刀客”とは関中下層人民特有の義侠組織である。破産農民、失業手工業者、労働者、都市遊民が集まったもので、通常、臨潼関山鎮で造られた“関山刀”を携帯していたことから、“刀客”と呼ばれていたという。清朝政府はこれを“刀匪”と呼んだ。


国民軍将軍、陝西主席

  1915年には陝西護国軍に参加、袁世凱軍と戦った。

  1917年、中華民国臨時約法をめぐって段祺瑞と孫文が対立した護法戦争に、孫文側に加わり、以後も直隷派、北洋軍、安徽派との戦いで数々の戦果を挙げて国民党の大きな称賛を得、1922年に孫文自ら楊虎城の国民党入党の手続きを行ったという。

  その後も煩を厭うわけではないが、ここに書ききれないほどの戦果を挙げて、1927年に馮玉祥に招聘されて国民革命軍第二集団軍第10軍軍長に任命されるなど大いに世に知られるようになった。

  1928年、蒋介石と馮玉祥との争いでは蒋介石に付いて戦う。

  この戦いで蒋介石の側に立って馮玉祥軍を打ち破った唐生智は、何を思ったか突如打ち破った馮玉祥と手を握って、武漢駐馬店にある国民党軍総司令部を攻めて蒋を驚かす。これに対して楊虎城は大雪の中、唐生智軍を奇襲、反撃してこれを大破した。

  この駐馬店の戦役は中国近代史の中でも高く評価される戦いで、楊虎城の名を一気に高めた。彼をあまり評価していなかった蒋介石は驚いた。そして1930年、蒋は楊虎城を第17路軍総指揮に任命、同年10月には国務会議の承認を経て陝西省政府主席に任命した。のちに陸軍二級上将にも任命されている。

  陝西省主席として楊虎城はとくに文化教育と水利事業等の発展に力を尽くした。

  当時軍閥同士の混戦が長く続いていて教育費は軍事費に流用され、陝西の教育は困窮し、危機に瀕していた。彼は主席になるや、軍事費を削減し、商業税、煙草税などを教育にまわし、また自費で故郷の孫鎮や蒲城県に多くの学校をつくった。

  さらに水利技術学校や、中国では初めての水工試験所、あるいは黄河水力発電所を建設している。

  さらにまた、軍閥混戦、政局不穏のため陝西省の医薬衛生事業は全くの空白状態だったが、省人民医院を設立し、省内の有名な医師など専門家を集めたほか、巨費を投じてX線設備などを整え、各種検査室などもつくって省人民医院を西北第一の医療機関にした。薬廠と助産学校も創立している。


抗日と死

  このころ蒋介石は馮玉祥や閻錫山など各地の軍閥との戦いに勝利し、また東北軍閥張作霖が日本軍に爆殺されたあと、あとを継いだ張学良が易幟を表明して国民党に加わったので中国をほぼ統一し、残るは共産軍壊滅だけという状況にあり、「攘外安内」(まず国内を安定させたのち外国と戦う)を掲げ、この方針を大々的に進めていた。

  楊虎城は蒋介石の国内統一の戦いに従っていたが、1931年の9・18(柳条湖)事件以後、考えが変わった。蒋介石の「攘外安内」政策に反対し、積極的に「抗日」を主張するようになったのである。1933年には「抗日」のための出兵を申し出たが取り上げられなかった。日本の満州侵略を見て、内戦をしている場合かという思いが強まり、蒋介石の承認を待たず、共産軍との戦闘をやめた。同年6月、川北の工農軍第四方面軍と不可侵の黙契「漢中密約」を交わしている。

   剿共のため東北から西安に移って来ていたが、何度も共産軍に負け、その内共産軍とは戦おうとしなくなった張学良と、これまた「抗日」を主張して共産軍と戦わない17路軍総司令、楊虎城の督戦のために、1936年12月、蒋介石が西安にやって来た。

  この機会をとらえ、楊虎城と張学良は蒋介石に直談判して「共産党との合作」と「抗日」を迫るが認められず、それでは、ということで、力づくで蒋介石を拘禁して「抗日」「国共合作」への転換を迫るクーデターを起こし、世界を震撼させた。よく知られている「西安事件」である。

  事件後、張学良は蒋介石に南京で拘束されたが、楊虎城は“外国視察”という名目で国外に放り出された。

  しかし、翌1937年7月盧溝橋事件が起きると、楊虎城は帰国して抗日戦に参加したいという電報を蒋介石に送っている。しかし受け入れられなかったので同年12月、抗日戦に参加しなければというやむに已まれぬ思いで帰国したところ、家族や秘書なども一緒に逮捕され、以後12年間拘禁された。

  1949年9月6日、蒋介石は国共内戦に敗れて重慶を放棄し、台湾に逃れることになった。その前夜、国民党の特務によって楊虎城は幼い子供や秘書夫婦、その子どもなどと一緒に殺害された。
 
  中華人民共和国建国後の1950年、遺体は西安のこの地に移葬された。


岐山面

  楊虎城陵園を出て、北に向かった。友誼西路と労働南路、高新路の合流点にある“永明”に入って昼食をする。私のリクエストである。

 岐山面2  “永明”は岐山面のチェーン店で、西安のあちらこちらにお店がある。私は専ら南梢門にあるお店に通ったが、この日は彼女の行きつけということで友誼西路の店にした。

  岐山面は久しぶりである。店員が麵をテーブルの上に置くと同時に箸をつけて面を啜った。面の歯ごたえ、酸味と辛みのきいたスープ、細切れの具、待ってました、と言いたいような味であった。

  食べた後しばらく一服して、再びクルマで友誼西路を東に走り、長安路に出て南梢門を北に行き、城内に入ってさらに北上、北大街と蓮湖路の交差点の一筋北にある細い道、青年路に入って西にしばらく行った。青年路の中ほどの北側に楊虎城の別荘であった「止園」がある。そこで車を降りた。


止 園

  “戈(か)を止(とど)むるを武という”と春秋左氏伝にある。“武”とは戈(ほこ)を止めることだという春秋左氏伝の説にもとづいてこの別荘は「止園」と名付けられたという。

   止園2 現在は楊虎城記念館になっていて、彼の生涯の写真や資料が展示されている。見るのは初めてではないが、ゆっくり時間をかけてみた。


民衆の戦士

  張学良は東北軍閥の御曹司で、小さい頃から行き届いた教育を受け、またなに不自由なく育った。成人になってからも東三省講武学堂で幹部軍人になる教育も受けている。父亡き後は大きな権力、権益、財産を引き継いだ。いわば生まれながらの軍閥であり金持ちである。

  楊虎城は彼とは全く違う。その日暮らしの貧農の生まれで、まともに教育も受けていなければ、後ろ盾になってくれるような人もない中で大きくなり、刀客にもなった。自分の手で民衆を組織し権力に歯向かって、一段一段階段を上がるように力をつけ、知識と教養を身につけ、人々の信頼と尊敬を勝ち取って来た人である。

  正義感と度胸、社会の下層の人々への熱い思いをばねにして一流の軍人、行政官になった。

  楊虎城別荘 抗日について言えば、西安事件以後は蒋介石にひたすら恭順の意を表し、唯々諾々と拘禁を甘受し、その後抗日について声をあげなかった張学良と違い、楊虎城は外国に追放されていても盧溝橋事件が起これば即座に、度々、帰国し抗日戦の前線に行きたいという訴えの電報を蒋介石に打ち、聞き入れないとわかれば強引に帰国して逮捕拘禁されている。

  同じ抗日であっても張学良の抗日は父を殺され、根拠地から追い出されたことへの“私怨”でないかと思うが、楊虎城のそれは掛け値なしの愛国、救国、中国人民を守りたいという思いがら出ている。

  張学良は拘禁50年後釈放され、100歳まで生きて天寿を全うした。楊虎城は国民党敗走の前夜に、家族などとともに殺された。この違いはなにか。蒋介石が楊虎城の国を愛し、民衆を心から愛するその思いと、行動を恐れたためではなかったかと思う。

  私は楊虎城を民衆の中から生まれ、民衆とともに戦った人、民衆の戦士だと尊敬している。

  張学良は楊虎城生誕100年に際し、楊虎城について「彼はすばらしい人物だ。愛国人士とみるべきだろう」と評価しつつも、「(西安事件では)脇役に過ぎなかった」と言っている。

  これは楊虎城の歴史への貢献を低く評価し、功績を自分が独り占めしようという思いからの発言ではないと思う。張学良は西安事件のことを問われると、計画実行したのは自分である、責任はすべて自分ひとりにあると言い、国民党の拘禁から解放された後も、西安事件のことは、それ以外は全く語らなかった。楊虎城が脇役であったという発言は、責任は自分だけにありとする覚悟の表明の一環、彼なりの美学から出たロジックであって、楊虎城を貶めるために言ったものではないと思うが、それはやはり違う、と私は思う。

  楊虎城は決して脇役ではない。

  私は楊虎城の思想や戦いの経歴から見て、西安事件を計画し実行した本当の主役は、楊虎城だと確信している。

  別荘の見学を終え、止園の門をくぐりながら、私はふと、明朝を倒しながらも自壊した李自成と、西北で解放区を作り、中国革命に貢献しながらも仲間に理解されず冷遇され、死を急いだ劉子丹を思い出した。いずれも黄土の匂いがする陝西生まれのアウトサイダーである。楊虎城もまた黄土の匂いがする偉大なアウトサイダーではなかったかと思う。

西安行 その二

西安行 その二

  足元に名酒
    土が醸す濃香

灯台下暗し

  中国陝西省には名の知られた白酒が三つある、と私は友人知人のみなさんにお話し、ブログで世間のみなさんに申し上げて来た。

  第一は、中国白酒を代表する名酒のひとつである「西鳳酒」、酒廠は宝鶏市鳳翔県にある。二つ目は「太白酒」、宝鶏市眉県の酒である。三つめは「杜康酒」で、渭南市白水県でつくられている。

  長安老窖高級 私が知らなかっただけで、陝西省にはもう一つ名の知られたお酒があった。それを最近になって知った。その名も「長安老窖」。名前のとおり西安でつくられている西安の地酒である。

  “灯台下暗し”というが、私は自分の無知を恥じた。西安を第二の故郷と広言しながら、地酒を知らなかったのである。恥ずかしいというより、情けない。

  どうしても一度訪ねてみたいと思った。今回の西安行きは時間的余裕があまりない。それでもそこに名酒があると聞いた以上は、知らん顔はできない。それでいろいろ工面して時間を作り「長安老窖」に行って来た。


ほんの近く

  「長安老窖」の酒廠は西安南郊。西安を南北に貫くメインストリート長安路をずっと南に下り、三環路を越えてしばらく行ったところ、鳳棲原にある。クルマで行ってもそれほど時間はかからないし、地下鉄2号線が近くを走っているので地下鉄でも行ける。交通の便はよい。

  長安老窖62 酒造り現場は大体郊外、というか田舎が多い。だから行くのが大変で、一日がかりの大仕事になるのが常だが、そういうところには何度も行ったのに、知らなかったゆえに、こんな近くの“聖地”に一度も行っていない。痛恨の極みである。


固体発酵

  「長安老窖」はレンガ造りの大きな建物の中で造られていた。建物に入って見て感動した。広い建物の中は足元にびっしりと窖が並んでいる。これを見ただけで興奮する。

  長安老窖12 いま仕込みが行われているところを見せていただいた。

  大曲という麹を混ぜ込んだお酒の原料を入れて発酵させるのは地面に掘った「窖」という大きな穴である。

  これから材料を入れるという窖は、3m×2.5m×深さ2mほどである。窖の壁や底には眼では見えないけれど、お酒の味や香りを醸す微生物がびっしりとついている。

  長安老窖52 少し離れたところで、蒸留器で蒸された原料が攪拌されている。蒸留器から出されこれから窖に入れられる原料のコウリャンやモチゴメ、補助材料の籾殻は当然高温になっている。このまま窖に入れると雑菌の繁殖を抑える乳酸菌などお酒造りに必要な窖の中の微生物が死んでしまう。それで急いで20℃程度まで冷ます。以前見たある酒造りの現場では、3,4人の職人さんが蒸されて蒸留器から出された原料を、スコップで空中に放り上げて冷ましていた。今はそんなことはしないようだ。撹拌機を使っていた。

  長安老窖22 これから蒸した原料を入れるという窖をじっくり見せていただいた。実際に空っぽの窖を見ると予想外に大きい、というか深い。底や周り壁は初めは黄土を塗り、その上に古い窖から酒造りに必要な微生物のついた土を取って来て塗って使うという。見せていただいた窖はもう30年以上使っているものということで底も周りの壁も真っ黒である。蒸しあがった材料を五層に積み重ねて入れ、上を封じて発酵させる。土の穴の中で発酵させる。これが中国白酒の特徴のひとつである。

  酒の発酵と言えば原料と酵母を、水あるいは果汁などの液体に入れて行うのが常識だが、中国白酒は水など液体は入れない。

  発酵が完了するまでの時間はは白酒の銘柄によっていろいろだが、一般的には30日ほどである。しかし長安老窖は60日。四川の名酒「濾州老窖」と同じである。長い。60日経って発酵が終わっても、水を入れていないので、日本酒やウイスキーその他、世界中のお酒のような液体の醪でなく、高粱などの原料そのままの個体醪である。こうした発酵を個体発酵という。これが中国白酒のもう一つの大きな特徴である。


老五甑法

   発酵したものは掘り出して蒸留器に入れて蒸留するが、この際醪には新しい原料、すなわちコウリャンなどを混ぜて蒸す。お酒の蒸留と同時に新原料の蒸しも行うのである。これを混蒸混焼という。蒸すのは60分。初めの15分はお酒の蒸留、後の45分は次の発酵材料の蒸しである。蒸し終ればそれをまた窖に入れて発酵させる。

  3長安老窖2 一旦蒸留してお酒を採った醪、いわば糟(かす)をまた新原料に混ぜて、蒸して、発酵に使うのである。日本の清酒にしてもウイスキーにしても、その他世界中のお酒はいったんお酒を絞った、あるいは蒸留した後の糟(かす)は捨てる、あるいは他に利用するということで再び酒の発酵には使わないが、中国白酒は違う。蒸留済みの醪をもう一度も二度も発酵させ、お酒を採り出すのである。これが中国白酒のさらなる特徴である。

  中国白酒には、蒸留済みの醪と新原料を混合しながら、発酵と蒸留を繰り返す「老五甑法」という酒製造法がある。その詳細な紹介は長くなるので省略するが、個体発酵ならではの実に合理的な製酒法で、先人の知恵のすばらしさに感心する。

  日本ではテレビなどで、昔の日本人の努力と知恵のすばらしさを強調し、“日本人はすごい”、“日本人の知恵や技術はすごい”ということをことさら強調しているが、昔の人の努力と知恵がすばらしいのは、当たり前のことだが、日本だけでない。中国の先人の知恵と技術もまたすばらしい。


濃香型

  中国白酒は香によって“香型”にわけている。“香型”は、かつては「濃香型」「清香型」「醤香型」「鳳香型」の四つだったが、いまは十種以上に分けられている。ただ、十種以上の“香型”の内、その生産の70%以上は「濃香型」である。

  長安老窖もその多くの人の好まれている濃香型のお酒である。

  フルーティな香り、しっとりとした甘みとのど越し、いつまで口の中に残る甘さと香り。飲むと心が落ち着くお酒である。

  地面に掘った穴の中で、こんな素晴らしいお酒が醸し出されるのかと思うと不思議な気がする。


呂さん

  案内してくださったのは営業のお仕事をし、かつお酒造りの技術管理もなさっているというまだ40歳台になったばかりのような若い方で、お名前は「呂です」とおっしゃった。お酒造りの工程を実に易しく、詳しく教えてくださった。私のくどい質問にも丁寧に、噛んで含めるように答えてくださり、教えてくださったので、恐縮した。

  「どこの大学で発酵について学ばれたのですか」とお聞きしたところ、意外にも「大学は陝西師範大学です」とおっしゃったので、少々驚いた。

西安行 その一

  西安行き その一

  ちょっと変わった
    随分おいしい一品

泥 螺

  食べることが大好きで、今風に“グルメ”と言えば恰好よいが、私の場合は食べ物に対する感性を鍛え、知識を蓄えておいしさの何たるかを極め、美食を追求するというものでなく、たんに口が卑しいだけで、我ながら恥ずかしい。

 以前食べておいしかったもので、身近になくて再度食することが難しいものなどは、手に入らないとわかっていてもいつまでも忘れられなくてブログに書いたりなどしている。

  その忘れられないものの一つに「泥螺(ニイルオ)」がある。

  はじめて食べたのはもう13,4年前になる。

  西安の上海料理のレストランで、隣のテーブルに座った3人の客が、白酒を飲みながら小さな黒いものをおいしそうに食べているのが気になった。ウエ-トレスを呼んで、私にもあの料理をくださいと言って頼んだ。食べてみておいしいのでびっくりした。ウエ-トレスになんというものかと聞いたが、よくわからない。紙に書いてもらって分かった。それが「泥螺」だった。

  ニイルオ1 それからしばらくしてその店とは違うレストランで注文したが、ないと言われた。以後食べていない。しかし味はしっかり覚えている。

  その後いろいろ調べてみると、長江や銭塘江の河口、浙江省の沿岸部に産するもので、陝西にはないようだということが分かった。

  そういえば西安の会社の同僚に聞いてもはっきり答えられる人はいなかった。西安ではあまり食べられていないようだ。

  先日西安に行った折、もうすぐ端午節なので粽子(ちまき)を買おうと思ってスーパーの中をうろうろしていると、偶然「泥螺」の瓶詰が目に入った。

  もう何年も会っていない旧友に会ったような驚きと感激で、慌てて棚に置いてあったものを全部カゴに入れて買って来た。

  日本に帰ってさっそく西安から持って帰って来た「長安老窖」の栓をあけ、「泥螺」の蓋をあけた。


肴として、ご飯の伴として

  泥螺は小さな巻貝である。

  最近、天然物はそんなにたくさん採れないようだし、海水汚染などの問題もあって、瓶詰の泥螺は養殖されたものがほどんどのようである。

  海辺や河口でひそんでいる天然のものは、どのくらいの大きさになるものか知らないが、瓶詰になっている養殖もの泥螺は、大きさ3~5mmの小さなものである。天然のものもこれと大して変わらない大きさだろう。

  ニイルオ3 殻は薄くて半透明。ちょっと力を入れるとパリッと割れてしまうほど脆い。

  要するに実に華奢な貝だが、身はおいしい。

  収獲した貝は塩水に浸けて砂や泥を吐かせた後、白酒、黄酒、酢、塩その他調味料に漬け込んで作るという。

  宋の時代には食されていたという記録があるようだから、食べ物としての歴史は1000年以上である。

  で、その味はというと、柔らかいが少しこりっとした歯ごたえがあり、つるり、とした食感で、そしていい塩味で、おいしい。

  紹興酒や日本の清酒の肴にいい。個性の強い中国の白酒にもいい。白酒が進む。

  酒の肴として絶品である。

  付け加えて言えば、酒の肴とするだけでなく、上海ではお粥に添えて食べるようだ。

  それも合うだろうと思う。ご飯の伴としてもいいだろう。

  中国には臭豆腐、腐乳、皮蛋などちょっと変わった食べ物がいろいろあるが、泥螺もそのちょっと変わった食べ物のひとつである。

教育勅語

  逆行注意   
    高齢者だけでない

教育復古
  
  先日、政府はすでに民主国家にはふさわしくないとして廃止されたはずの「教育勅語」を、今後学校において “憲法と教育基本法に違反しない形” での使用を認めるという閣議決定をした。

  教育勅語奉読 “憲法と教育基本法に違反しない形”での使用ということになると、「教育勅語は、国民に対して天皇のために命を投げ出せという前近代的な考えを強要するもので、軍国主義教育の柱になった。これを否定することが現在の教育の原点である」というように教育勅語を否定する観点で使わざるを得ないが、政府やそろって靖国神社に参拝するような政治家諸氏の思いは、そういうことではいないだろう。

  今回の閣議決定は、教育勅語にも推奨すべきいいところがあるなどと屁理屈をつけて、全体主義教育への復古の跳躍台にしようという意図がみえ見えで、見苦しいし、恐ろしい。


国民学校

  1941年に国民学校令が出された。

  「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ実施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(国民学校令) ということで尋常小学校と尋常高等小学校が一つになり、“国民学校”が出来た。

  「皇国ノ道」とは教育勅語にある「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ということであろう。

  ところが国民学校が発足してわずか6年、天壤無窮ノ皇運も思い通りにならなくて、膺懲するはずだった中国に逆に膺懲され、“鬼畜米英”との戦争にも負けて連合軍に占領された。それでまたまた1947年に学制改革が実施されて、国民学校は6年制の小学校に変わった。

  私は1946年に学校に上がったので、国民学校最後の入学生である。

  国民学校最後の入学生だが、教育勅語を覚えさせられたり、唱和させられたりした記憶はない。学制はまだ変わっていなかったけれど、すでに戦争に負け、連合軍の統治下にあったので、教育勅語のご威光は地に落ち、さらにはそれを口にしてなならない状況にあったのかもしれない。

  私が入学した学校には、校庭の東の端に御影石造りの立派な“奉安殿”があった。だがそれもまたすぐ取り壊された。その壊された様子もいまだによく覚えている。


  森友学園の幼稚園で、園児に教育勅語を暗唱させているところが、テレビで何度も放送されて度々見た。その都度、これもときどきテレビで見る北朝鮮の幼稚園のようだなと思った。

  教育勅語は漢字カタカナまじり文で、難しいことばが並んでいる。幼稚園児どころかいまの高校生でも読める人はあまりいないだろうし、読んで聞かされてもわからないだろう。あるいは書いたものを見せられても一度見ただけではわからないだろうと思う。

  私は小さい頃漢籍の素読をさせられたことがある。わけのわからないものを読んだり、覚えたりするのは実に苦痛であった。森友の園児とその親御さんは大変だったろう、と同情する。


上から目線 こけおどし

  先に言ったように、教育勅語は漢字カタカナまじり文である。漢字は四角くて複雑である。漢字と漢字をつなぐカタカナもまた、角々として固い字である。したがって漢字カタカナ交じり文はいかめしく、威嚇性がある。それを威厳があると時の政府は考えたのだろう。

  明治以降政府は「五箇条の御誓文」に始まり、明治憲法ほか各種法令、「教育勅語」から15年戦争敗戦受諾の詔書に到るまで、詔勅、法令、布告は漢字カタカナ交じり文をもって人民を威圧して来た。

  私の父親は1945年8月15日に、仕事の最中に呼び出され、暑い日向で終戦の玉音放送を聞いたという。「何を言われているのかさっぱりわからなかった。ただ陛下のお声を恐れ入って聞いただけ」と言っていた。

 そのように漢字が連なった漢文調の文章は、わけがわからなくても人を驚かせ、恐れ入らせる力がある。

  一海知義先生は「明治以降の片仮名まじり文はおおむね権力に癒着していた」「難解な漢字・漢文調は、権力の象徴、いわば “こけおどし” として利用された。それは日本語における漢字文化のマイナス面を示している」(日本語の中の漢字文化) とおっしゃっている。

  日本の政治家の多くが、内容も形式も前近代的な教育勅語を復活させようというその魂胆は、そもそも現代に合わない。安倍さんがよく言っている自由と民主主義の価値観に最も反するものでないか。

  教育勅語の一部、“爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ”などをつまみ食いして、それを徳目として推奨したいと言うなら、それはそれで新しい形式、新しい表現で行えばいいことで、“爾臣民”などという上から目線の命令調がなぜ必要なのか。

  思うに、教育勅語の復活をもくろんでいる人たちは、この上から目線の、漢字カナ交じり、漢文調に権威と力を感んじているのではないだろうか。これで国民を押さえつけて勇ましい軍国主義、全体主義の道へ引っ張って行こうというのである。

 いつかまた国会で、野党議員を「黙れっ」と一喝するような議員が出て来るかも知れない。
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yuzan0305

Author:yuzan0305
神戸生まれ、神戸育ち。おとこ。
第二の故郷は中国・西安。

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